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日本は苦情の文化なんだろう

こんな記事がホッテントリに載ってました。
simplearchitect.hatenablog.com

要約すると、室内用防音室を無茶して買ったのはいいが、アメリカの配達の適当さや品物の説明の適当さで
設置に四苦八苦たけど、周りの誰一人として否定的なことを言わずに手伝ってくれたり提案してくれたりなどがあって
無事設置できて感動した!という話

やっぱ、文化が違うってすごい違いだ

この話、ほんと文化の違いの塊だ。
最初の注文の時点でこんな適当な説明されたあとに、あんな荷物が届いたら日本だったら即、苦情&消費者庁電話案件でしょう。
こんなもん二人で運べるか!そっちで手配してキャンセルしろで終わってしまう。
宅配も所長が平謝りに来るレベルだし、周りもあんなに大きな荷物が玄関にあったら邪魔だから早くしてくれとか言って
苦情は言えども励ましたり、これはいいね!なんて言うことはないだろう。

ポジティブは聞いてていいね

この話を聞いてて、ふとイライラをあんまり感じなかった。
なぜだろうと思うとこの話に出てくる人はみんな適当だけど、一生懸命だし誰一人として悪く言わないからイライラしないのだろう。
あと、無闇に誤ったりしていないのもいいところだ。日本だったら申し訳ございません連発でこっちが申し訳なってしまうことも度々感じる。
それがないだけでとても清々しい気持ちになる。
その上で、無理と思ったものが成し遂げられたならなんといいことだろうと、ハッピーにならないわけがない。
ネガティブな発言がないというのはここまでいいことなんだ。

日本は苦情の文化

翻って、日本の場合は几帳面な文化のおかげか、配達は正確だし、商品説明はこれ以上ないほど丁寧にしてくれるし銀行などのサービスもとても便利だ。
ただ、これらのサービスはなぜ維持というか、ここまでされているのかと考えると声のでかい人の苦情があるのではないかと思う。
電車が止まれば血相を変えて駅員に詰め、荷物が遅れれば怒鳴り込みの電話をする。
銀行などでも待たされたやらなんやらで怒っている人をたまに見る。
知人によく苦情を言う人がいるが、その人は自分が社会を良くしているという。
その人を見ていると良くしているというよりただ、自分の鬱憤を晴らしているようにしか見えないが。
しかし、日本ではこの声の大きい苦情を言う人の言いなりになり、それにマスコミも付随して総だたきにする。
そうして出来上がったのが行き過ぎかもと言われる日本のサービスなのだろう。
もちろん、日本の几帳面なサービスはとてもいいし、便利だ。外国の話を聞くと驚くことばかりだ。
それでももうちょっと苦情や苦言ではなくアメリカのような褒めあい、励ましあえるような環境にならないものか。
そうしたらもっと生きやすい国になるだろう。褒め合いながらサービスを向上することだってできるはずだ。
無理じゃない。できるはず。できない理由を述べる前にどうやったらできるかを考えたい。
だめだったときはその時にまた考えればいいじゃないか。